E.N.R. クリプトモネダス

"Everybody Needs A Retreat." - 雑記帳

右にも左にも関心を持たれる福沢諭吉

スポンサードリンク

FukuzawaYukichi.jpg

福沢諭吉という思想家は近代日本の独立度(成熟度)を計るバロメーターであると思います。彼が読まれなくなる時代こそ日本が真に独立国家になるときです。

 

ことばの真の意味でのリベラルだった福沢諭吉

彼の希念したのは国家主義でも社会主義でもなく、いまふうにいえばリバタリアンに近い「政府がなくてもやっていける独立自尊の個人の集まりとしての日本」でした。

 

政府は頼りない国民の面倒を見るための一種の必要悪であって、皇室への崇敬とは分けて考えなくちゃいかん。国民がしっかりすれば、政府などいくら小さくてもかまわん。

 

おおよそ福沢はこのように考えた人で、驚くほど現代的(というより欧米流)です。福沢の描いていた「独立自尊の個人」はけっして(戦後日本におけるような)売国奴や亡国の民を意味しません。近代の相互依存世界において、独立不羈の人格(個人主義自由主義)は偏狭な郷土愛からも盲目的な西洋跪拝からも涵養されません。諸国の歴史・思潮を知り、批判した上にしか生まれ得ないのです。

 

日本史は残念ながら、福沢の希望した方向ではなく国家主義を強化するかたちで動き、戦前は言うに及ばず、戦後になっても政治家・官僚は護送船団方式の残滓をひきずっています。アメリカの庇護があまりにも心地よく独立心を失っているからです。

しかるにここに怪しむべきは、わが日本普通の学者論客が、西洋を盲信するの一事なり。(中略)ひたすら彼の事物を称賛し、これを欽慕(きんぼ)し、これに心酔し、はなはだしきはこれに恐怖して、毫(ごう)も疑いの念を起こさず、一も西洋、二も西洋とて、ただ西洋の筆法をもって模本(もほん)に供し、小なるは衣食住居のことより、大なるは政令法制のことに至るまでも、その疑わしきものは、西洋を標準に立てて、得失を評論するものの如し。奇もまたはなはだしというべし。

いま日本で主流化している新自由主義者とやらは、福沢が嘆いた当時の学者論客と選ぶところがありません。

 

アメリカ的に「大きな政府」(ケインズ主義)へ変質したリベラルをリベラルと呼んでいるようでは日本独立の前途は多難というしかありません。