E.N.R. クリプトモネダス

"Everybody Needs A Retreat." - 雑記帳

ベルクソンの神秘思想観

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神秘思想の現代的意義

「神秘」や「ミステリー」といったことばがどんなに手垢にまみれても、自然科学が神の代わりを務めることはできそうにありません。

 人間は科学によって世界の一部を解明しましたが、多くはいぜん謎に包まれたままです。科学者を含めて人間はいまも「神的な領域」からインスピレーションを汲み取っています。

今回取り上げるベルクソン(Henri-Louis Bergson)は、人間性から、この広い意味での宗教性を取り上げたら、人間の種としての創造性は枯渇してしまうと考えました。

彼はキリスト教神秘思想を高く評価し、事実上の遺著といっていい『道徳と宗教の二源泉』で次のように言っています。

神秘主義の極致は、生が顕わにしている創造的努力と触れ合うこと、したがってまたこの努力と部分的に一つになることにある。この努力はただちに神自身ではないとしても、神に発するものである。偉大な神秘家とは、人間種の物質性のゆえに指定されたさまざまの制限を乗り越え、神の働きを続け、かくしてそれをさらに先へ伸ばしてゆくような個性のことであろう。

神秘家こそが、ともすれば創造を拒みがちな人間社会にあって、「神の働き」を感知し、それを発展させる触媒のような存在だというのです。ここには、人間の保守性と革新性のせめぎ合いを、生命原理から考えるベルクソンの面目が躍如としています。

生物種の保守性

ベルクソンによれば、現実界に産み落とされた生物種は、神によって与えられた生物学的制約に縛られており、その制約を打ち破れない "保守性" を持っています。動物社会も人間社会も本来、創造(変化)を拒む固定社会なのです。

この点で、フランス革命以降の進歩主義者が信奉する自由や平等の追求は、個に立脚するばかりで人間の宿命的社会性を軽んじる浅はかな "革新性" に過ぎません。

そもそもベルクソンの生命の定義は「無際限に続く進展の連続」ということであり、生命にはあらかじめ定められた目標など存在しません。この点で、ヘーゲルマルクスのように、人間社会が段階的進化を通じて完成に至るというリニアな発展史観とも鋭く対立しています。

これら近代の主潮的思想への違和感こそ、ベルクソンが神秘家を称揚した重い動機になっていると思われます。

 

人間の両義性:社会性と知性

人間という種を特徴づけるのは社会性と知性の2つの本性です。人間は生物学的には強い種ではなく、丸腰ならライオンにもオオカミにも大鷲にもかないません。

そのため早くから徒党を組んで集団で暮らし、メンバー相互が協力することで生き残る術を発達させました。人間にとって社会は生き延びるために必要不可欠な場であり、人間の社会性は種の保存本能とも呼べるものでしょう。

最も人間らしい知性

ところが、人間には社会性と同時に、知性があります。動物中で唯一、言語能力や虚構を共有する能力など高度な知性を駆使して文明を築き、地球上に君臨する力を獲得しました。

とはいえ、知性は諸刃の剣です。知性が昂じれば、個々の人間の中に自我意識が目覚め、社会と自分を対立的に感じるようになります。種の保存本能より、個の保存本能が優先されるからです。個の意識が他者との対立を引き起こし、社会に不和を巻き起こすと、人間は利己主義に傾き、社会から孤立していきます。

知性が導いた自己意識が生存の基盤である社会を否定する矛盾から、人間の不幸や苦悩が生まれます。人間の生とは、つきつめれば、社会性と知性の折り合いの問題ということになるでしょう。

神秘家登場

ベルクソンによれば、社会にさざ波を起こす個に目覚めた人間のなかで、最も "創造的" な社会の変化に貢献しうる存在が神秘家たちです。なぜなら、神秘家はたとえ部分的にではあれ神と一体化し、神の御意や愛を直に体験し、わかっています。放っておけば閉じていく社会を、人間の知性が理想とする世界に作り変えるには、神秘家のヴィジョンやイニシアティブが欠かせないというわけです。

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ベルクソンは神秘家が、近代の進歩主義や合理主義の行き詰り(息詰まり?)を克服する「模範」となってくれることを期待したのです。『道徳と宗教の二源泉』にはこうあります。

神秘主義の到達点は生命が示す創造的努力と触れ合うこと、したがって部分的に一つになることである。この努力は神そのものではないにしても、神から出ている。偉大な神秘家は、物質性によって〔人間〕種に与えられた限界を乗り越え、そうして神の業(action divine)を継続し、延長するような個性であろう。

ここで間違ってはいけないのは、偉大な神秘家は、いわゆる「見神」や「脱我」といった個人的経験に酔いしれ、それで満足してしまう人間ではないという点です。

  • 個人的神秘体験は観照の結果に過ぎない。観照は停止であり、創造ではない。
  • 神秘体験の状態は異常であり恒常性がない。反復不能な体験では他の人間の「模範」たりえない。

 

呼びかけと応答

個我としての神秘家が、それを乗り越え、社会の「模範」となる偉大な神秘家に脱皮したいなら、彼は現実世界に戻って、社会に具体的な行動を働きかけ、他者を先導することが求められます。

では、神秘体験を「創造の努力」に結びつけるにはどうすればいいのでしょうか?

  •  神秘体験は主に宗教や芸術という回路を通じて、すでに社会に薄く広く伝えられている。「幾人かの特権的な人たちが十全な形で所有していたものを、すべての人が少しずつ得られる」。
  • 神秘家の「呼びかけ」に「応じる」メカニズムを通じて人間は「創造の努力」に参加できる。それは必ずしも宗教に奉じることや神秘家になることではない。人間は生活の中で、すでに「呼びかけ」を感知し「応じてしまっている」ことが多い。だた事後的にしか了解されないだけだ。各人はこの了解を自覚すれば、意識的に「模倣」を開始することができる。

 

創造の歓喜

ベルクソンによれば、こうした神秘家の「呼びかけ」への応答が最高度に発揮されるのは、人間が創造する「歓喜 joie」を味わうときです。

…われわれは歓喜があるところには必ず創造があることがわかる。創造が豊かであるほど歓喜は深まる。子どもを見つめる母親は歓喜に満ちている。なぜなら、彼女は肉体的にも精神的にも創造を成し遂げたと感じているからだ。

取引を拡大する商人や事業の繁栄を見守る工場主は、それによって金銭を稼ぎ有名になれるから歓喜を覚えるのだろうか。富や名声はもちろん彼が覚える満足の大きな部分を占めるが、それらが彼にもたらすのは歓喜よりも快楽である。彼が真の歓喜のうちで味わうのは、うまく稼働する企業をつくりあげた、何かに生命をもたらした、という感情である。

これはそれほど難しいことをいっているのではないと思います。

富や名声は「快楽」です。「快楽」は種の限界に留まる停止でしかありません。しかし「歓喜」は種の前進につながるエネルギーです。子どもを見つめる母親は、その無私の愛情を通じて、すでに種の限界を乗り越える力を充填しているからです。

神秘家の例に引き付けて言い換えれば、自己の「見神」や「脱我」に留まる神秘家は「快楽」を得ているに過ぎません。偉大な神秘家であれば、現実へフィードバックを戻すことにこそ「歓喜」を感じるはずなのです。

もっと素直に神秘の声を聞く社会へ

神秘はいわゆる法悦(エクスタシー)の経験にだけ顕われるわけではないでしょう。ベルクソンは西洋人なのでキリスト教神秘家についてしか語っていないだけの話です。

私たち日本人の場合なら、神社の森の中で感じる清浄感、除夜の鐘をききながら新年を迎えたときに感じる新鮮な気分なども立派な神秘体験です。

もっと日常的な場面でもかまいません。「誰かの役に立つとうれしい」「お客様に喜んでもらえるとうれしい」といった多くの人が良く口にする感情は、社会全体に広く共有されています。まさに「快楽」ではなく「歓喜」ではないでしょうか?

ところが、現代の為政者はこうした思いが主流となって社会に創造的に働く環境を潰すことを進歩だと勘違いしているようです。自国民の繁栄より移民の受け入れを優先したり、広がる格差を放っておいて、無差別に消費から罰金をとるなどという政治が、人々の神秘感情の発露を邪魔して、益々対立感情や孤立感を煽っているのです。

それでも、社会がかろうじて均衡を保っていられるのは人々の「歓喜」への思いが不十分ながら発揮されているからでしょう。

単純さの美点

ベルクソンは結局、愛や喜びの感情に根差さない社会はうまくいかないと言っているように思います。彼は、観照を通じて、神と一部でも合一できるような神秘家の「単純さ」(人のよさ?)の重要性を指摘しています。人間は大事な場面では「素直が一番」なのです。