E.N.R. クリプトモネダス

"Everybody Needs A Retreat." - 雑記帳

日本的シンクレティズム:神は実体にあらず運動なり

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鵺の像(兵庫県西脇市長明寺)


日本という国は知れば知るだけ不思議が深まる国です。たとえば、日本人の宗教感覚を西洋的な概念で捉えようとするとわけがわかりません。日本の「かみ」とはいったい何なのかという基本さえ、簡単には掴めない・・・むかしだったら鵺(ぬえ)のごとき怪物め、というところです。

 

今回は書きかけたままほこりをかぶっていた原稿を少し手直ししたものをお目にかけます。

 

 

 

 

日本的シンクレティズム(Syncretism)?

 アブラハム宗教のGod、中国の神(しん)、在来のかみ、仏教の仏や天.、新興宗教のあれやこれやの神..、これらを混在させて涼しい顔をしている日本。

世界では神道と仏教の習合をシンクティズムと解釈し、いわば多数決で「仏教国」と解釈しているようです。でも西洋的解釈は往々にして彼らの認識を押し付ける結果になるので、こうした規定は疑ってかかる必要があります。

日本の神仏習合は本当に、いわゆるシンクティズムなのでしょうか?

 

シンクレティズムとは何か?

手始めに、西洋的な意味でのシンクティズムとはどういう意味なのか調べてみましょう。事典の定義と語源を見てみます。 

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ブリタニカ解説

違った背景をもち,互いに異質の宗教や哲学的・神学的立場を妥協させようとする行為またその結果をいう。

語源は,内部で抗争していたクレタ島人が争いをやめて外敵に共同であたったことをさす synkrētismosである。

狭義にはヘレニズム期およびローマ帝国末期に異質の神々を単なる外観などの類似から同一化しようとした新プラトン主義者たちの試みをいい,特にアレクサンドリア学派のそれが有名。アリストテレス学派とプラトン学派などの調和の企てや,中国でのイエズス会典礼論争,キリスト教宣教師の土着化の努力などは,シンクレティズムの一種といえよう。仏教,イスラム教,インドや中国の宗教をはじめあらゆる文化には,シンクレティズムの現象がみられる。(ブリタニカ国際大百科事典)

ニッポニカ解説

この言葉が現代につながる意味で使われ始めたのは17世紀で、プロテスタントカトリックの対立を超える全世界の教会の一致がシンクレティズムと呼ばれた。その後、初期キリスト教に対する異教の諸影響が明らかにされるなか、比較宗教学の進展とともに宗教や文化一般を論じる言葉として定着した。

文化・宗教間の接触に伴う現象一般をさすこともあるが、諸宗教の多元的共存などとは区別されることが多い。日本宗教での典型例には中世以降の神仏習合があり、修験道(しゅげんどう)もその成立に際して仏教・道教・神祇信仰など諸宗教間の接触が不可欠だった。(ニッポニカ)

 

語源解説

www.etymonline.com

"reconciliation of different beliefs," 1610s, from French syncrétisme (17c.) and directly from Modern Latin syncretismus (used by German Protestant theologian David Pareus, 1615), from Greek synkretismos "union of communities," from synkretizein "to combine against a common enemy," from syn- "together" (see syn-) + second element of uncertain origin. One theory connects it with kretismos "lying," from kretizein "to lie like a Cretan;" another connects it with the stem of kerannynai "to mix, blend;" krasis "mixture."

「 異なる信仰の対立(矛盾)を解消すること」。ラテン語⇒フランス語経由で英語に入りましたが、元々はギリシャ語のsynkretismos(共同体の団結)から来ているようです。synkretismosの動詞形synkretizeinは「共通の敵に対して団結する」の意味。

 

ブリタニカとニッポニカの解説も併せて考えますと、

だいたい押さえておくべき点はこの2つでしょうか。語感は明らかにネガティブです。融和や統合ではなく、むしろ一時しのぎ、しょせん無理筋な妥協、あるいは迎合といったニュアンスが響いてきます。特に排他性の高い一神教の場合、妥協はむずかしかったことは容易に想像されます。

 

神仏習合とは何か?

では、日本的シンクレティズムといわれる神仏習合はどのようなものだったのか、ニッポニカの解説を見てみましょう。 

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厳密な意味での日本における神仏習合は、10世紀初期よりのち1868年(明治1)までに存したものであり、それ以前は単に神仏調和とでもいうべきであろう。
 日本への仏教伝来以降、聖徳太子の積極的な仏教奨励策、また仏教そのものの同化性のあったことも影響して、白鳳(はくほう)時代ころより神前で読経(どきょう)・写経などが行われ、天平(てんぴょう)時代より日本の神は仏道に帰依(きえ)し、福業を修行しようと欲しているものとみて、そのための場として、神社に付属して神宮寺を建立したことなどは、神仏調和というべきことである。

(中略)

日本でその基礎となるような神観、仏観が生じ、本地垂迹説が生じたのは、10世紀に入ってからのことである。『三代実録』のなかに「垂迹」の語はみられるが、ここでいう意味とは別の意であり、本地垂迹説としての実質的なその語の初見は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)所蔵文書中の承平(じょうへい)7年(937)10月4日付けの大宰府牒(だざいふのちょう)のなかでである。すなわち、そこで筥崎(はこざき)宮・宇佐(うさ)宮の祭神に関連して「権現菩薩(ごんげんぼさつ)垂迹」と記されているのがそれである。これよりして、およそそのころ本格的な神仏習合思想が生じたものとみられる。

 

日本の場合、奈良時代に仏教が入ってきてから神道側と対立する場面もあったようですが、朝廷をいち早く味方につけた仏教の政治力が功を奏したのか、クレタ島のような血なまぐさい対立には至らず、比較的穏便に習合が進んでいったようです。まあ、お墨付きがバックにあれば、大きな神社といえど神宮寺の建立を断るのがむずかしかったのでしょう。

厳密には10世紀から、およそ700年間、内部関係者の反目や教説争いはあっても、大筋として神仏は仲よく同じ境内に共存していました。神仏習合がやんだのは、明治維新直後、復古神道をかかげて、神道を再整備して疑似一神教化しようとした新政府が神仏判然(分離)令を発布したときです。

神仏の共存といっても、その背後では、宗教的(政治的)主導権をめぐる丁々発止が繰り広げられていた形跡が認められます。日本史ではつねに二大勢力のつばぜり合いが歴史を動かしていたからです。

シンクレティズムという視点で見れば、仏教側のキープレイヤーは天台真言の両密教が務め、神道側でそれに呼応したのが宇佐八幡宮という図式が浮かび上がってきます。

 

本地垂迹(仏>神)と神本仏迹(神>仏)

神仏の仲を取り持った宇佐八幡という存在

宇佐八幡宮神仏習合の成功の鍵を握っていたのは間違いないようです。少し長くなりますが、宗教のダイナミズムがほの見える記述なので、ニッポニカの本地垂迹の解説を引用します。

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 日本古来の神祇(じんぎ)信仰と仏教の仏菩薩(ぶつぼさつ)の信仰が同化する、いわゆる神仏習合に基づく考え方で、仏菩薩がこの世の人を救うために仮に姿を現すとし、仏菩薩を本地(真実の身)、神を垂迹(仮の身)とする思想である。もとは『法華経(ほけきょう)』の本門・迹門、『大日経』の本地身・加持(かじ)身などの説に発し、歴史上の釈迦(しゃか)を永遠普遍の超越的な本仏の現れとする思想に基づく。(中略)

神仏の習合に積極的に働いたのは八幡(はちまん)神である。東大寺大仏の建立に協力した宇佐八幡がそれで、菩薩号が与えられたのは八幡神が最初である。

こうした神仏習合の進行は神前読経(どきょう)、度僧、写経、写仏の盛行を生み、また寺中に寺を守る鎮守神を置くに至るが、八幡神が大安寺行教(だいあんじぎょうきょう)によって石清水(いわしみず)に勧請(かんじょう)された859年(貞観1)、天台僧恵亮(えりょう)が賀茂(かも)・春日(かすが)二神のために年分度者(ねんぶんどしゃ)を置くよう請うた表に初めて垂迹の語を用いたことは、習合が一段と進んだことを示している。「皇覚(仏)物(衆生(しゅじょう))を導くに且(かつ)は実、且は権(ごん)、大士(だいじ)(菩薩)迹(あと)を垂れて或(あるい)は王、或は神」と説いた。

こうした素地は、937年(承平7)筑前(ちくぜん)(福岡県)筥崎(はこざき)宮の神宮寺多宝塔の建立を計画した天台僧兼祐(けんゆう)の申状の「権現(ごんげん)菩薩の垂迹」という表現を生み、神は仏菩薩が権(かり)に姿を現してこの世に迹を垂れたものとしたのである。こうして垂迹としての権現の思想は、平安後期には熱田(あつた)権現、蔵王(ざおう)権現などの権現を生み、それがその本地の明確化を要求するに至った。

その初め、幽玄にして計りがたいとされた八幡権現の「本覚(本地)」が阿弥陀仏(あみだぶつ)とされ、熊野権現が弥陀・観音の垂迹とされるにつれて、やがて熊野三山の三所、五所王子などの本地が明らかにされることによって本地決定の傾向が一段と進んだ。またこの動きと呼応して天台、真言両宗では教義的裏づけが行われ、天台に山王一実(さんのういちじつ)神道真言に両部習合神道が生じた。

しかしこれら仏本神迹の説に対して、南北朝期には神国日本の理念にたって神本仏迹神道論も生じ、北畠親房(きたばたけちかふさ)はその先駆けをなした。

本地垂迹が本格化するきっかけは、密教が皇室に近づき、最初の垂迹先として、皇室と近しい八幡宮を選んだことだったのがわかります。

宇佐八幡による聖武天皇の大仏建立への協力

八幡菩薩号授与

⇒行教による宇佐参篭

平安京近くへの遷座の託宣

八幡菩薩を石清水への勧請

⇒石清水八幡の成立

という流れが確認できるからです。

以後、密教・石清水(宇佐)コンビが宗教行政の中心になるのですが、南北朝時代にそれへの反動として北畠親房が神本仏迹を唱え始め、遠く幕末の国学運動へ飛び火し、最終的に明治政府へ流れ込んだのです。

 

そもそも八幡信仰とは何か?

気になるのは、都から遠く離れた宇佐八幡がなぜ皇室と関わりが深かったのかという点です。八幡信仰の実態を調べましょう。

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全国各地に鎮座する八幡神社または若宮八幡社などの名でよばれる神社信仰。本宮は大分県宇佐(うさ)市に鎮座する宇佐神宮で、八幡大神(はちまんおおかみ)、比売大神(ひめおおかみ)、神功(じんぐう)皇后を祭神とし、八幡大神八幡大菩薩(だいぼさつ)が信仰の対象。わが国の神社信仰のなかでもっとも普及した信仰で、全国に4万余の八幡社がある。

八幡神は一般に戦(いくさ)の神、仏教守護神といわれるが、その信仰の発生、発達は複雑で、海の神、鍛冶(かじ)の神、秦(はた)氏の神、焼畑の神、ハルマンの神などの諸説があった。

記紀によると豊前(ぶぜん)国宇佐には宇佐津彦、宇佐津姫がみえ、宇佐国造(くにのみやつこ)が祀(まつ)る宇佐神があった。

しかし宇佐八幡宮の縁起には、571年(欽明天皇32)のころ宇佐郡菱形池(ひしかたいけ)辺に奇瑞(きずい)を現す鍛冶翁(かじのおきな)がいて、大神比義(おおがのひぎ)が祈ると、3歳の童児が現れ竹葉を立てて八幡神応神(やはたがみおうじん)天皇の霊であると託宣したとあり、その後は宇佐神は「やはた神」に隠れてしまう

宇佐の特殊神事に放生会(ほうじょうえ)、行幸会(ぎょうこうえ)があるが、その祭祀(さいし)集団をみると、豊前国田川郡と京都(みやこ)郡などの「古代とよ国」と、豊前国上毛(かみつみけ)郡と下毛郡などの「古代やま国」とみられる土地の人々が「やはた神」に神験を奉っている。これが原始からの神事ならば、創祀の地は豊前国筑城(ついき)郡綾幡郷(あやはたごう)あるいは上毛郡山田郷で、のちに宇佐に移ったのかもしれない。

司祭者は5世紀には豊国奇巫(きふ)、6世紀には豊国法師らしく、いずれも天皇の治病に参内している。このころ蘇我馬子(そがのうまこ)が大神比義を宇佐に遣わし、「やはた神」に応神天皇の神格を与えたのではないかとみられる。同宮は712年(和銅5)に官社となり、天平(てんぴょう)年間(729~749)の東大寺大仏鋳造に協力してその鎮守となり、以後、国分寺を通じて八幡神は全国的になった。

ローカルな「やはた神」が、仏教導入の先導者である蘇我馬子の力添えで応神天皇の神格を得たというのは注目すべき動きでしょう。それにしてなぜ馬子は九州の一地方神に目をつけ、味方に引き入れる必要があったのでしょう?

西辺の地にあったため国防上の拠点とする意思が働いたのでしょう。

東大寺ができると749年に八幡神に一品(いっぽん)、比(ひめ)神に二品(にほん)の神階、翌年、当時最高の封戸(ふこ)1400戸が授けられた。以後国家の大事に関係し、託宣により道鏡(どうきょう)の天位の野望を退けたので、宇佐へ恒例の勅使が続いた。

この神に781年(天応1)菩薩号が贈られ、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に勧請(かんじょう)されると、皇室の太祖(たいそ)、第二の宗廟(そうびょう)と仰がれた。

また、源氏の氏神となり、関東・東北地方に進出し、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)が勧請されると中世武士の崇敬を受け、「神は八幡」といわれ、全国に勧請された。八幡神は仏教のみでなく当初は道教とも融合していて、山岳信仰との関係が深い平安時代には、九州に広まっていた母子神信仰と結び付き、神母は人聞(にんもん)菩薩とよばれて安産、農耕、生産などの庶民信仰となり、六郷(ろくごう)山を本拠として豊後(ぶんご)の国東(くにさき)半島に栄えた。

 

日本の神は実体ではなく運動

こうした日本人の宗教的無節操、融通無碍な感じは「精神の運動」と言った方がわかりやすいかもしれません。日本古来の「かみ」は、こうしたその時々の状況に合わせて動きを変える「運動」のことなのではないかと思うのです。

運動としての「かみ」は何でも呑み込むようでいて、実は巧妙な取捨選択をすることで、後からでもアイデンティファイできるようになっているところがあります。

 たとえていえば、日本語の「かみ」とは、コンピュータのオブジェクト指向モデルにおけるスーパークラスなのです。サブクラスにはどんなインスタンス(=個別の神仏)でも受け入れるし、クラスが抽象クラス(=神仏に託された属性)であっても気にしません。大事なのはスーパークラスという容器の安泰だけだからです。容器といっても実体(静的なオブジェクト)ではなく、ダイナミックな変化あるいは運動(属性)を「かみ」と呼びならわしてきたのではないかと思います。

 天皇はこの「かみ」という運動体の直接の子孫というわけです。その意味するところは、霊的次元における「かみ」属性の継承ということになるでしょう。

継承には一世一代の大嘗祭が必要で、天皇はかみと一緒に食し、一夜のしとねを共にすることで霊を体内に取り込み一体化するのでしょう。日本では米は単なる物質ではなく霊に力を与える依代だから一緒に食するという行為が神聖なのです。天皇世襲はこの霊的継承を地上で確実に行うための方策ですから、あらゆる近代法的な解釈の埒外にあります。

こうして考えてくると、神仏習合シンクレティズムと呼称はいろいろあっても、日本の信仰とは結局、「かみ」という精神のダイナミックな運動(変化)に国家(民)の安寧を祈る天皇を護ることに尽きます。

状況状況に合わせた精神の運動が止めば、文字通り「かみ」は廃れ、天皇は無効化し、日本国は終わるのだろうと思います。極端な話、この「運動」性さえ守れるなら「かみ」の姿形などどうでもいいのです。また神や仏の出身も問いません。(※皇室制度を前近代的な血による世襲と外形的にとらえる向きは多いのですが、以上のような天皇の本質に即さない議論です。)

 

日本的精神:ダイレクトに拝まない先祖崇拝

 以上を言い換えるなら、日本文明の融通無碍さの秘訣は、「かみ」をダイレクトに拝まないところにあるでしょう。実際、天皇は御簾の向こうに拝むものでした。この直接対峙しないという尊び方こそまさに日本らしい部分ではありませんか。

 同様の精神の働きは日本語の音読みと訓読みの併用システムにも見られます。漢語でも西洋語でものべつ幕なしに受容するのですが、ちゃんと書き分けています。近年こそ漢字に訳し直すのが面倒になって、インフォームドコンセントなどとカタカナ表記そのもので済ませたりしていますが、いずれにしろ、漢字やカタカナやアルファベットが標識のように外来語を識別できるシステムです。

たとえば、

ホスピスへの入所に当たっては家族のインフォームドコンセントが肝要である。そう、新米看護師はPC画面を睨みながら、キーボードに人差し指を立てて、ひと文字ひと文字インプットした。60の手習いである。」

という一文を読む日本人には、何が外来語か、何が漢語か、何か和語か、あるいは和語の漢字化かがわかるようになっています。日本人にとっては当たり前かもしれませんが、これは驚くべき表記システムです。

たとえば、現代英語はゲルマン系語彙(和語に相当)に大量のラテン系語彙(外来語)が流入して出来上がっていますが、その6割は外来語です。

That professor is writing a book regarding the Japanese history.

という文章のうち、ゲルマン系語彙は、that、is、write、book、theの5つだけで、他はぜんぶフランス語経由のラテン系語彙です。しかし、英語の使い手は音の響きで何となく察知できるとは思いますが、日本語の表記と違い、パッと見て両者を区別することは必ずしもできません。

 神々にも同じことが言えます。日本では、神道や仏教というくくりが標識になって神々を区別でき、けっしてその大元である祖霊(先祖という神々)に抵触しない(=祖霊をダイレクトに拝まない)ようになっているのです。ダイレクトに「家族」や「血族」を拝まず、家族や血族が抽象化された祖霊を拝むシステムになっていると言い換えることができます。つまり有力氏族の衝突の回避、対立反目の回避を、皇室というスーパークラスに託した和合の結果、神仏習合的な精神の動きが自然にとてたということです。

 日本語の表記システムが和語を守り抜く工夫であるように(和語は漢字表記されても訓読みされるので和語自体の音は消滅しません)、日本の宗教システムは先祖の御霊への信仰を(それと意識させずに)守り抜く工夫である、と言えるかと思います。

その意味で、日本はいまも先祖崇拝の国なのです。そして先祖とはどこそこの何某さんの魂というようなものではなく、時を重ねて抽象化され、純化され、スーパークラス化されていった日本精神のあり方のようなものなのだと思います。

 

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