E.N.R. クリプトモネダス

"Everybody Needs A Retreat." - 雑記帳

一神教はセム翻訳を介した東西アーリア思想の融合?AIは新たな時代の終末論?

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一神教って東のペルシャ思想と西のギリシャ思想がセム思想を経由してできた宗教かな?という仮説を持っています。

今回は前回のゾロアスター・ショックの話の続編です。

 

キホン、民族は融和しない

のっけから恐縮ですが、民族というのは融和できないと個人的に思っています。融和できないので共存するしかない、と。

世界史は勝者の民族が敗者の民族を殲滅、混血、移転などで征服していくストーリーに満ち満ちており、ほぼ例外はありません。

もっとも望ましいのは日本のようなゆっくりした混血ですが、どうも世界宗教を通じて地球を仕切っている民族は好戦的で、支配欲が強いので、日本型の混血はむずかしいように思います。顔かたちが全然違うというのも、建前論はとにかく、融和をむすかしくしているファクターでしょう。

また、そもそも融和する必要はないとも思っています。生命世界は多様性が命綱です。一色に染められた世界はリスクにもろくなります。ホモサピエンスも同じでたくさん民族を残しておいた方が、将来の絶滅リスクを多少なりとも減らせるでしょう。

 

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世界宗教セム翻訳を介した東西アーリア思想の融合

どの程度の遺伝的要素が関係しているかわかりませんが、明らかに異質なものはいくらミックスしても異質性が逆に際立っていくだけのようです。要らぬいさかいが増えるだけです。

どうも近年、これを意図的に忘れさせようとする動きが顕在化していて気持ち悪いなあと思いながら世界を眺めています。「西洋人が急にいい人になるわけないじゃん」・・・いま演出されている自由主義国家(限定の)融和イメージ、リベラルたちのフラットで公正な社会像・・・どうも違和感を覚えますね。緩やかな人民思想統制?って思っちゃいます。

 

・・・どうしてこんな話から始めたかといえば、ゾロアスター教を生んだアーリア人ユダヤ教を生んだセム人は異民族なわけですが、もっと大きな括りの「遊牧民」という視点で見ると同一の民族と言えるからです。大所高所では馬が合うわけです(彼らはチャリオットの使い手なのでこれは比喩ともいえない比喩です)。民族が融和して世界宗教ができたわけじゃなく、たまたまお互い知らずに近づいた結果できた、ということです。

同じ遊牧民だからゾロアスター教をうまくユダヤ教へ接合できたのではないでしょうか?お互い乾燥地帯の砂漠の民だからこそ「根幹」で影響を受けても大丈夫だったのでは?普遍的な思想ってあるの?という話です。

 

仏教と日本人

ひるがえって仏教。あれはどうなんでしょうか?

同じアーリア人の宗教でも仏教はインド本国で廃れました。ブッダアーリア人の典型思想を打ち出したのではないことは確かです。インドという湿潤な大地での長い定住生活が感性レベルに変化をもたらし、遊牧民の遺伝子に打ち勝った例外的人物だったのかもしれません。

仏教は中央アジア遊牧民を介して中国に入り、日本へ伝わりました。日本は異民族の混じりあった土地ではありますが、マジョリティは当時も農耕民だったでしょう。神道世界が仏教に出会ったとき、これもまたカルチャーショックだったに違いありません。

結果は神仏習合であり、日本仏教化でした。仏教が日本に定着できたのは、ひとつの神を究極ゴールに置かない、ブッダの非アーリア的な志向性があったからではないか?仏教は遊牧民の「天」を突き抜け、スカイじゃない無としての「空」へ行ってしまいましたからね。

 

アーリアとセムの合作

話をゾロアスター教ユダヤ教の出会いに戻しましょう。ここで起きたことを民族の視点から整理すると、アーリア人ペルシャ)の思想がセム人(ユダヤ)に入り、キリスト(ユダヤ)の登場を挟んで、別のアーリア人ギリシャ)へ伝播し、最終的にアーリア人社会(ローマを中心とするヨーロッパ)へ広まっていくわけです。

 

アブラハム宗教(ユダヤ・キリスト・イスラム)の形成においては、

 ペルシャイスラエルギリシャ⇒ローマ⇒ヨーロッパ

というアーリア思想の「間接的継承」が起きた、ということなのです。大局的には異質性は存在しないという点が大事ではなないでしょうか?

 

言い方を変えれば、アブラハム宗教とは、

 セム翻訳を介した東西アーリア思想の融合

だということです。

東西アーリア思想はそのすそ野の広さ、懐の深さから世界宗教に成長できたのだと思いますが、やはり注意すべきはその普遍性がセムやアーリアの枠を超え、人類全体の普遍性に適用されるのは危険ではないか、ということです。そのことはすでに世界史のあまたの悲劇が証明しているように思います。

 

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ハラリのメタ農業論

このアーリア・セム的な世界観は、異民族である日本人がよくよくわきまえておくべきものだと思います。例えば、現代を代表するセム人の歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ氏の考え方は非常に興味深いものがあります。「天」からものを発想する遊牧民気質のようなものを感じるからです。

 

メタな視点

ハラリ氏は著書の『サピエンス全史』で農業革命というコンセプトを提示します。農耕の手柄を讃えるんじゃなく、むしろ、不幸の始まりだったんじゃないの?と疑問を呈しているわけで、一種のアンチ農耕民族論です(笑)。「お前ら農民のせいでノマドは肩身が狭くなって、もうどこにも住めなくなちゃったじゃないか!」という・・・。

ハラリ氏の行論をざっと追ってみると・・・

人類は定住を始め小麦を栽培し始めたとき、爆発的な食糧の増産が起き、人口が増えた。人口が増えると村の規模が拡大し、国を形成する。増えた人口を食べさせるためには小麦を作り続けなければならない。人類が遊牧生活から農耕生活主体へ移ったのは、小麦を作り始めたからだというのです。

その結果どうなったか?

人類は土地に縛られ、小麦を育てる仕事に縛られ、移動の自由を失い、それらを取り仕切る支配階級が生まれたのです。アブラハム宗教を生んだ遊牧民からすれば「労働=苦役」は神の罰にしか見えないでしょうが、人類はこれをやめなかった。

なぜでしょうか?ハラリ氏は次の理由を挙げています。

  • 長い時間をかけて変化だったので遊牧生活、狩猟生活の記憶が薄れていた。
  • 増えた人口を養うにはやめるにやめられない。
  • いちど覚えた贅沢をやめて以前の狩猟生活に戻るのは無理。
  • 都市ができ国家ができ大きな造作(建設)が必要になると大量の食糧供給が必要

なるほど。特に3つ目の理由は大きいですね。スマホやインターネットを考えてください。ないときの生活を思い出せますか?というより、戻ろうと思いますか?

歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。人々は、ある贅沢品にいったん慣れてしまうと、それを当たり前と思うようになる。そのうち、それに頼り始める。そしてついには、それなしでは生きられなくなる。(『サピエンス全史』第5章)

 贅沢は義務となり、人間の行動を縛る。うーん、考えさせられますねぇ。確かにその通りです。

フィクションの共有とサピエンスの社会性

ハラリ氏の歴史論はイデオロギー論争を超えた次元から淡々と歴史を俯瞰しているメタ歴史論です。彼自身がいわば「神」の視点に立って歴史を眺めています。

「神」の視点に立つと、ホモサピエンスが地球を征服できたのはフィクションを共有する能力があったから、ということになります。

虚構を共有し信じ合えたからこそ、赤の他人でも協力して大きな事業を成し遂げられます。事象と事象を巧みにつなぎ合わせストーリーにする能力が、貯えた知識やノウハウの伝承を可能にしました。ストーリーもまた虚構ですが、それが口伝であろうと文字記録であろうと、物語がなければサピエンスの記憶には残らなかったでしょう。

要するに、ハラリ氏のいうフィクションとはサピエンスの生存様式のことです。国家も法律も貨幣も、すべてサピエンスの社会性がその存続を保証しています。逆に、それらのフィクションが共有されなくなれば、社会は一瞬で崩壊してしまうでしょう。

 

最後の未征服地は「時間」

最後に残ったフロンティアは「時間」です。これもサピエンスしか持たない虚構ですが、その虚構を物理次元に翻訳したのが「寿命」という概念です。

それが絶対必要かどうかは問わないとして、サピエンスの物理存在としての生き残りを確保するためには、サピエンス自身を寿命に制約されないメタ生命に変えるしかありません。

もし物理次元ではなく、サピエンスの知能を残す手段が見つかれば、あえて寿命にこだわる必要はなくなるかもしれません。

現状、時間と寿命のフロンティアに挑む手段としては人工知能(AI)が有力になっています。AIの設計や開発に当たっては、肉体と精神の関係をどう定義するのか、霊という物質的次元で解明しえていない事象をどう扱うのかなど、研究者や開発者に突き付けられている問いは重いものばかりです。

サピエンスはAIの開発現場を放置せず、哲学者、宗教家、芸術家、法律家、政治家、アスリートなどあらゆる分野の英知を集めて、今後を検討すべきタイミングに来ているのではないでしょうか?

 

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 サピエンス全史も終末論?

長々と書いてきましたが、一神教とハラリ氏のメタ歴史論がどこで結びつくかといえば、議論が最後に「時間」や「寿命」に行き着いたように、セム人やアーリア人の思考は必ず到達点が想定されるのですね。

一神教がまさにそうで、あれが世界宗教になれたのは終末論と復活のフィクションの力によってだと見ています。愛とか受苦とか、その他諸々はおまけみたいなもんです。

清算の思想

ユダヤ人がペルシャ人の二元論に出会ってグッときたのは、最終段階に用意されている「清算」だったんじゃないでしょうか?

必ず終わりが来る。砂漠の茫漠たる世界に生きていると、そりゃ果てがないというのは苦役、恐怖以外の何ものでもないでしょう。終わってくれないと困る。だから進化論なんでしょう。ヘーゲルマルクスもみんな千年王国論ですよね。その範型はすべてキリスト教の、というよりゾロアスター教の終末論の枠組みを踏襲して「完成」とか「目的」とかを志向してるわけです。しかも自分たちが有利なように、到達点から逆算して、いまはこれをする、あれをするって、侵略や征服の理論的根拠や大義名分にしちゃう。この発想のクセ、妙な行動力、それがまずいと感じるんです。

 

ハラリ氏のメタ歴史論も例外ではないと思います。

ホモデウス(AI)は新時代の終末論ではないでしょうか?「時間」を克服したサピエンスは天国で永遠の生命を享受するというストーリーなわけです。